あなたは『5,000人のうちの一人』…? はたまた…。(゜.゜) [文系っぽいお話]
『枕草子』…言わずと知れた清少納言の随筆ですよね。
この中には、当時の公家の生活の様子や宮中の事について色々と書いてあるのですが、
ちょっと興味深い記述があったので、ご紹介します。
当時の人々は、
仏法による時代区分によると『像法時代』の人で、
西暦1017年から始まり現在も続いている『末法時代』(諸説あり)の衆生と比べると、
機根(命のレベル)が高く、
仏法に対する造詣も現代の我々とは比べ物にならないほど深かったようです。
ですから、仏法の極理といわれている『法華経』の講義、“法華八講”がありますよというと、
みんな喜び勇んで出かけたようです。
さて、ある時、小白河にある小一條の大将のお宅で、この“法華八講”を催していた時のこと、
どうしても、その日のうちにやらなくてはならない用事があるので、清少納言は、
途中で退座しようと講義の場を抜け出します。
すると、その場にいた権中納言さんが、
「‘退くもまたよし’ってことですかね。」
と忙しそうに出ていこうとする清少納言に言葉を投げかけました。
それに対して、清少納言は、
「そんなこと仰って、あなたもその5,000人のうちの一人に入らなければいいですけどね。」
と言って出ていってしまうのですが、このやり取りが素晴らしかったという事で、
後の語り草になったという事です。
といっても、意味分かりますか
「‘退くもまたよし’ってことですかね。」と言われて、
「あなたも、5,000人のうちの一人でしょ。」
と答える。何か共通の話題があると思いませんか?
このお話は、法華経の方便品というお経の中にその話題を見出すことができます。
ある時、釈尊が開三顕一の法を説こうとすると、
5000人の増上慢が法座を起って退いてしまったのですが、
釈尊はその増上慢の人達を制止することなく、そのままにしておいたそうです。
この故事から、権中納言さんは釈尊気取りで、
「‘退くもまたよし’ってことですかね。」
というのですが、
清少納言も負けじと、
「あなたこそ、5000人の増上慢と一緒でしょ!」
と言って出ていくわけです。
これは、権中納言さんにしても、清少納言にしても、それを聞いている周りの人にしても、
八巻からなる法華経の一字一句をそらんじていなければ到底できる芸当ではありませんよね。
現代の私達は、仕事が…とか、会議が…とか、とかく生活に追われてしまっていますが、
忙しいという字は、
“心”を“亡くす”と書くわけで、確かに仕事をするために生まれて来たわけでもないし、
せかせかと動き回るために存在するわけでもないというふうに考えると、
生き方も少しは変わってくるのかもしれないなぁと、感じたこの頃です。
この中には、当時の公家の生活の様子や宮中の事について色々と書いてあるのですが、
ちょっと興味深い記述があったので、ご紹介します。
当時の人々は、
仏法による時代区分によると『像法時代』の人で、
西暦1017年から始まり現在も続いている『末法時代』(諸説あり)の衆生と比べると、
機根(命のレベル)が高く、
仏法に対する造詣も現代の我々とは比べ物にならないほど深かったようです。
ですから、仏法の極理といわれている『法華経』の講義、“法華八講”がありますよというと、
みんな喜び勇んで出かけたようです。
さて、ある時、小白河にある小一條の大将のお宅で、この“法華八講”を催していた時のこと、
どうしても、その日のうちにやらなくてはならない用事があるので、清少納言は、
途中で退座しようと講義の場を抜け出します。
すると、その場にいた権中納言さんが、
「‘退くもまたよし’ってことですかね。」
と忙しそうに出ていこうとする清少納言に言葉を投げかけました。
それに対して、清少納言は、
「そんなこと仰って、あなたもその5,000人のうちの一人に入らなければいいですけどね。」
と言って出ていってしまうのですが、このやり取りが素晴らしかったという事で、
後の語り草になったという事です。
といっても、意味分かりますか
「‘退くもまたよし’ってことですかね。」と言われて、
「あなたも、5,000人のうちの一人でしょ。」
と答える。何か共通の話題があると思いませんか?
このお話は、法華経の方便品というお経の中にその話題を見出すことができます。
ある時、釈尊が開三顕一の法を説こうとすると、
5000人の増上慢が法座を起って退いてしまったのですが、
釈尊はその増上慢の人達を制止することなく、そのままにしておいたそうです。
この故事から、権中納言さんは釈尊気取りで、
「‘退くもまたよし’ってことですかね。」
というのですが、
清少納言も負けじと、
「あなたこそ、5000人の増上慢と一緒でしょ!」
と言って出ていくわけです。
これは、権中納言さんにしても、清少納言にしても、それを聞いている周りの人にしても、
八巻からなる法華経の一字一句をそらんじていなければ到底できる芸当ではありませんよね。
現代の私達は、仕事が…とか、会議が…とか、とかく生活に追われてしまっていますが、
忙しいという字は、
“心”を“亡くす”と書くわけで、確かに仕事をするために生まれて来たわけでもないし、
せかせかと動き回るために存在するわけでもないというふうに考えると、
生き方も少しは変わってくるのかもしれないなぁと、感じたこの頃です。
2013-07-25 12:08
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