『バルバロイ』…さて何のことでしょうか? 一応、文系のお話です。(^u^) [文系っぽいお話]
『バルバロイ』。
この言葉の意味わかりますか?
何かのアニメのマシンの名前ではありませんよ。
一応、“文系っぽいお話”ですから。
ためしに、
『バルバロイ』って、
声に出して発音してみましょう。
一回だけでなく、何回か言ってみると…、
何だか耳障りな言葉ですよね。
このバルバロイとは、
“聞き苦しい言葉を話す者”
という意味で、
そこから転じて、“異民族”をさすようになったという事です。
バルバロイは、ギリシャ語なんですけど、
1400年の半ばくらいまで存続した、
ビザンツ帝国(東ローマ帝国)
のお話を読んでいるとたまに出てくるのですよこの言葉。
古代から続いているローマ帝国の誇りが、
異民族に対する“上から目線”
的な態度を生み、
こんな言葉になったのでしょうね。
まあ、
確かに、西ヨーロッパでは失われてしまった
古代ギリシャから続く高度な文明が、
ビザンツ帝国が存続したおかげで東ヨーロッパには、
生き続けていたので、
彼らのよく言う、
“野蛮”なものとは一線を画していたかったのかもしれません。
いずれにしても、言葉の起源をたどっていくと、
その文明のもとでの物の考え方も、
垣間見えるのだなぁと思いました。
この言葉の意味わかりますか?
何かのアニメのマシンの名前ではありませんよ。
一応、“文系っぽいお話”ですから。
ためしに、
『バルバロイ』って、
声に出して発音してみましょう。
一回だけでなく、何回か言ってみると…、
何だか耳障りな言葉ですよね。
このバルバロイとは、
“聞き苦しい言葉を話す者”
という意味で、
そこから転じて、“異民族”をさすようになったという事です。
バルバロイは、ギリシャ語なんですけど、
1400年の半ばくらいまで存続した、
ビザンツ帝国(東ローマ帝国)
のお話を読んでいるとたまに出てくるのですよこの言葉。
古代から続いているローマ帝国の誇りが、
異民族に対する“上から目線”
的な態度を生み、
こんな言葉になったのでしょうね。
まあ、
確かに、西ヨーロッパでは失われてしまった
古代ギリシャから続く高度な文明が、
ビザンツ帝国が存続したおかげで東ヨーロッパには、
生き続けていたので、
彼らのよく言う、
“野蛮”なものとは一線を画していたかったのかもしれません。
いずれにしても、言葉の起源をたどっていくと、
その文明のもとでの物の考え方も、
垣間見えるのだなぁと思いました。
“1300年の時を越えて”、CM出演! 蘇我入鹿ってすごいもんだ…。 [文系っぽいお話]
食品会社のCMに、
『蘇我入鹿』
が出るようになってから、
しばらくたちますね。
まさか、
1300年前に自分が野菜炒めの元のCMに出るなんて考えてもいなかったでしょう。
歴史というのは、
その当時のいわゆる“正統派”権力者の立場で記述されていますから、
どうしても、
自己の正統性を主張するかのような内容になってしまうのは致し方ないことでしょう。
蘇我入鹿の暗殺もまたしかり。
今となっては、
真実は闇の中といってもよいと思います。
ただ、
蘇我入鹿が、非常に頭脳明晰で、
国際情勢に詳しかったという事が、
資料からもわかっているそうです。
蘇我入鹿はいわゆる改革派であったとも言われていますね。
いつの時代も、時代が変わる時には、
保守派と改革派が議論を戦わせるようですが、
歴史の評価はまた後の学者さんにお任せしましょう。
それにしても、
1300年の時を越えてCM出演するとは、
やっぱり大した人ですね、蘇我入鹿さんは。
『蘇我入鹿』
が出るようになってから、
しばらくたちますね。
まさか、
1300年前に自分が野菜炒めの元のCMに出るなんて考えてもいなかったでしょう。
歴史というのは、
その当時のいわゆる“正統派”権力者の立場で記述されていますから、
どうしても、
自己の正統性を主張するかのような内容になってしまうのは致し方ないことでしょう。
蘇我入鹿の暗殺もまたしかり。
今となっては、
真実は闇の中といってもよいと思います。
ただ、
蘇我入鹿が、非常に頭脳明晰で、
国際情勢に詳しかったという事が、
資料からもわかっているそうです。
蘇我入鹿はいわゆる改革派であったとも言われていますね。
いつの時代も、時代が変わる時には、
保守派と改革派が議論を戦わせるようですが、
歴史の評価はまた後の学者さんにお任せしましょう。
それにしても、
1300年の時を越えてCM出演するとは、
やっぱり大した人ですね、蘇我入鹿さんは。
『歌用短冊』…これも絶滅危惧種です! (・_・;) [文系っぽいお話]
“ファラオ”の威をかるもの…興味深いですなぁ。(^u^) [文系っぽいお話]
ローマ帝国がエジプトを滅ぼし、
(この時のファラオがクレオパトラ)
皇帝直轄領としたのと同時に、
当時の地中海地方での新興国家ローマには、
その権威付けが必要であったようですね。
ローマ皇帝はその権威の正統性を“形”に表すために、
征服したエジプトから、
ファラオ(王)の権威の象徴としての“オベリスク”を持ちかえります。
このオベリスクを飾る事で、
皇帝の権威を示したわけです。
つまり、エジプトは戦争には負けても、
精神的には、新興国ローマには屈しなかったと言えるでしょうね。
これ以降、
ヨーロッパ世界では、
オベリスクの略奪が結構な数で行われます。
中には、
近現代に入って、
鉄筋コンクリートで自作したオベリスクもあるそうな。
いずれにしても、
古代エジプトのファラオの権威は今も現代国家で生き続けているわけです。
今度、
ニュース番組で、
アメリカ発のニュースが報道される時に、
記者の後ろに注目してみて下さい。
「こちら、ワシントンD.Cから~がお伝えしています。…」
と言っている後ろには、
オベリスクが、ドーンとそびえていますから。
そう、“現代のローマ帝国”アメリカにも、
オベリスクが、ちゃーんとあるのですよ。
(この時のファラオがクレオパトラ)
皇帝直轄領としたのと同時に、
当時の地中海地方での新興国家ローマには、
その権威付けが必要であったようですね。
ローマ皇帝はその権威の正統性を“形”に表すために、
征服したエジプトから、
ファラオ(王)の権威の象徴としての“オベリスク”を持ちかえります。
このオベリスクを飾る事で、
皇帝の権威を示したわけです。
つまり、エジプトは戦争には負けても、
精神的には、新興国ローマには屈しなかったと言えるでしょうね。
これ以降、
ヨーロッパ世界では、
オベリスクの略奪が結構な数で行われます。
中には、
近現代に入って、
鉄筋コンクリートで自作したオベリスクもあるそうな。
いずれにしても、
古代エジプトのファラオの権威は今も現代国家で生き続けているわけです。
今度、
ニュース番組で、
アメリカ発のニュースが報道される時に、
記者の後ろに注目してみて下さい。
「こちら、ワシントンD.Cから~がお伝えしています。…」
と言っている後ろには、
オベリスクが、ドーンとそびえていますから。
そう、“現代のローマ帝国”アメリカにも、
オベリスクが、ちゃーんとあるのですよ。
“ピラミッド”おまけ話。(^u^) [文系っぽいお話]
前の記事で触れた、
ピラミッドですが、
今ではなんだかデコボコな見た目ですが、
造られた当時は、
きれいに磨かれた石が表面に張られていて、
遠くからもピカピカと輝いて見えたと、
そう伝えられています。
その証拠となる写真をどうぞ
これ、ピラミッドの最上部におかれていた、
“キャップストーン”と呼ばれる石です。
こんな感じの石でピラミッドは覆われていたというのですから、
そりゃまぁ、
遠くからでもピカピカに光って見えまさぁね。
当時のエジプトの国民はさぞ、
誇らしかったでしょうね。
「うちのファラオ様はすごいんだぞ!ローマが何ぼのもんじゃい!」
って言う声も聞こえてきそうです。
そう、実はエジプトを征服したローマも、
ファラオの権威の前には最後まで勝てず、
その権威をかりて、
ローマ皇帝の正統性を主張したという事実もあるのです。
そのお話はまた後ほど。
ピラミッドですが、
今ではなんだかデコボコな見た目ですが、
造られた当時は、
きれいに磨かれた石が表面に張られていて、
遠くからもピカピカと輝いて見えたと、
そう伝えられています。
その証拠となる写真をどうぞ
これ、ピラミッドの最上部におかれていた、
“キャップストーン”と呼ばれる石です。
こんな感じの石でピラミッドは覆われていたというのですから、
そりゃまぁ、
遠くからでもピカピカに光って見えまさぁね。
当時のエジプトの国民はさぞ、
誇らしかったでしょうね。
「うちのファラオ様はすごいんだぞ!ローマが何ぼのもんじゃい!」
って言う声も聞こえてきそうです。
そう、実はエジプトを征服したローマも、
ファラオの権威の前には最後まで勝てず、
その権威をかりて、
ローマ皇帝の正統性を主張したという事実もあるのです。
そのお話はまた後ほど。
“ピラミッド”はいかに造られたか?! (゜.゜) [文系っぽいお話]
“ピラミッド”
まさに古代を代表する“巨大建造物”ですよね。
ギザのピラミッドなんかは、
その規模と完成度からものすごく有名ですが、
あの様に一つ何トンもある巨大な石を積み重ねて、
エッチラオッチラ人の手でつくったという事を考えると、
モノスゴイことをやっていたのだなぁと、
改めて感じます。
あの重ーい石を何個も積んでいくというは、
とんでもない重労働だという事で、
従来、
ピラミッドは、奴隷とか戦争の捕虜に造らせたと、
言われてきましたが、
近年になって、
奴隷とか捕虜に造らせた、
いわゆる“強制労働”ではなかったという事が、
多くの発掘から明らかになってきたようです。
それでは、その労働力はどこから来たのか?
現代の解釈は以下の通りです。
エジプトはそもそも地中海を代表する
“農耕国家”です。
『エジプトはナイルの賜物』
というのは、
有名な言葉でしょう。
しかし、当時は年がら年中、
農作物ができたわけではないので、
農民には暇な時間、農閑期があったわけです。
そうすると、
農民の皆さんは、仕事もないし困るわけですよね。
そこで、古代エジプトの政府は、
“大公共事業”をして、
農閑期の農家の皆さんに仕事を提供したわけです。
さらに、
今の豊かな生活は、王様の“ファラオ”のおかげだから、
恩返しのつもりで頑張ろうね、っていう意味も込めたわけです。
これらのことは、
新たに発掘された粘土板に記された内容から解ってきたそうですよ。
粘土板によると、
ファラオを称賛する記述とか、
出勤簿などもあって、
「誰々さん、本日、二日酔いでお休み。」
なんてのもあったようです。
二日酔いで休めるなんて、
随分とユルイお話ですよね。
それと、労働者には“パンとビール”が支給されたようです。
何とも至れり尽くせりではありませんか。
当時の新興国家、“ローマ(帝国)”が、
エジプトを欲しがったのもわからなくはないですね。
こんなに豊かな時代が当時あったという事実を見ると、
現代の我々は豊かなのかなぁと、
つい思ってしまったこの頃です。
まさに古代を代表する“巨大建造物”ですよね。
ギザのピラミッドなんかは、
その規模と完成度からものすごく有名ですが、
あの様に一つ何トンもある巨大な石を積み重ねて、
エッチラオッチラ人の手でつくったという事を考えると、
モノスゴイことをやっていたのだなぁと、
改めて感じます。
あの重ーい石を何個も積んでいくというは、
とんでもない重労働だという事で、
従来、
ピラミッドは、奴隷とか戦争の捕虜に造らせたと、
言われてきましたが、
近年になって、
奴隷とか捕虜に造らせた、
いわゆる“強制労働”ではなかったという事が、
多くの発掘から明らかになってきたようです。
それでは、その労働力はどこから来たのか?
現代の解釈は以下の通りです。
エジプトはそもそも地中海を代表する
“農耕国家”です。
『エジプトはナイルの賜物』
というのは、
有名な言葉でしょう。
しかし、当時は年がら年中、
農作物ができたわけではないので、
農民には暇な時間、農閑期があったわけです。
そうすると、
農民の皆さんは、仕事もないし困るわけですよね。
そこで、古代エジプトの政府は、
“大公共事業”をして、
農閑期の農家の皆さんに仕事を提供したわけです。
さらに、
今の豊かな生活は、王様の“ファラオ”のおかげだから、
恩返しのつもりで頑張ろうね、っていう意味も込めたわけです。
これらのことは、
新たに発掘された粘土板に記された内容から解ってきたそうですよ。
粘土板によると、
ファラオを称賛する記述とか、
出勤簿などもあって、
「誰々さん、本日、二日酔いでお休み。」
なんてのもあったようです。
二日酔いで休めるなんて、
随分とユルイお話ですよね。
それと、労働者には“パンとビール”が支給されたようです。
何とも至れり尽くせりではありませんか。
当時の新興国家、“ローマ(帝国)”が、
エジプトを欲しがったのもわからなくはないですね。
こんなに豊かな時代が当時あったという事実を見ると、
現代の我々は豊かなのかなぁと、
つい思ってしまったこの頃です。
あなたは『5,000人のうちの一人』…? はたまた…。(゜.゜) [文系っぽいお話]
『枕草子』…言わずと知れた清少納言の随筆ですよね。
この中には、当時の公家の生活の様子や宮中の事について色々と書いてあるのですが、
ちょっと興味深い記述があったので、ご紹介します。
当時の人々は、
仏法による時代区分によると『像法時代』の人で、
西暦1017年から始まり現在も続いている『末法時代』(諸説あり)の衆生と比べると、
機根(命のレベル)が高く、
仏法に対する造詣も現代の我々とは比べ物にならないほど深かったようです。
ですから、仏法の極理といわれている『法華経』の講義、“法華八講”がありますよというと、
みんな喜び勇んで出かけたようです。
さて、ある時、小白河にある小一條の大将のお宅で、この“法華八講”を催していた時のこと、
どうしても、その日のうちにやらなくてはならない用事があるので、清少納言は、
途中で退座しようと講義の場を抜け出します。
すると、その場にいた権中納言さんが、
「‘退くもまたよし’ってことですかね。」
と忙しそうに出ていこうとする清少納言に言葉を投げかけました。
それに対して、清少納言は、
「そんなこと仰って、あなたもその5,000人のうちの一人に入らなければいいですけどね。」
と言って出ていってしまうのですが、このやり取りが素晴らしかったという事で、
後の語り草になったという事です。
といっても、意味分かりますか
「‘退くもまたよし’ってことですかね。」と言われて、
「あなたも、5,000人のうちの一人でしょ。」
と答える。何か共通の話題があると思いませんか?
このお話は、法華経の方便品というお経の中にその話題を見出すことができます。
ある時、釈尊が開三顕一の法を説こうとすると、
5000人の増上慢が法座を起って退いてしまったのですが、
釈尊はその増上慢の人達を制止することなく、そのままにしておいたそうです。
この故事から、権中納言さんは釈尊気取りで、
「‘退くもまたよし’ってことですかね。」
というのですが、
清少納言も負けじと、
「あなたこそ、5000人の増上慢と一緒でしょ!」
と言って出ていくわけです。
これは、権中納言さんにしても、清少納言にしても、それを聞いている周りの人にしても、
八巻からなる法華経の一字一句をそらんじていなければ到底できる芸当ではありませんよね。
現代の私達は、仕事が…とか、会議が…とか、とかく生活に追われてしまっていますが、
忙しいという字は、
“心”を“亡くす”と書くわけで、確かに仕事をするために生まれて来たわけでもないし、
せかせかと動き回るために存在するわけでもないというふうに考えると、
生き方も少しは変わってくるのかもしれないなぁと、感じたこの頃です。
この中には、当時の公家の生活の様子や宮中の事について色々と書いてあるのですが、
ちょっと興味深い記述があったので、ご紹介します。
当時の人々は、
仏法による時代区分によると『像法時代』の人で、
西暦1017年から始まり現在も続いている『末法時代』(諸説あり)の衆生と比べると、
機根(命のレベル)が高く、
仏法に対する造詣も現代の我々とは比べ物にならないほど深かったようです。
ですから、仏法の極理といわれている『法華経』の講義、“法華八講”がありますよというと、
みんな喜び勇んで出かけたようです。
さて、ある時、小白河にある小一條の大将のお宅で、この“法華八講”を催していた時のこと、
どうしても、その日のうちにやらなくてはならない用事があるので、清少納言は、
途中で退座しようと講義の場を抜け出します。
すると、その場にいた権中納言さんが、
「‘退くもまたよし’ってことですかね。」
と忙しそうに出ていこうとする清少納言に言葉を投げかけました。
それに対して、清少納言は、
「そんなこと仰って、あなたもその5,000人のうちの一人に入らなければいいですけどね。」
と言って出ていってしまうのですが、このやり取りが素晴らしかったという事で、
後の語り草になったという事です。
といっても、意味分かりますか
「‘退くもまたよし’ってことですかね。」と言われて、
「あなたも、5,000人のうちの一人でしょ。」
と答える。何か共通の話題があると思いませんか?
このお話は、法華経の方便品というお経の中にその話題を見出すことができます。
ある時、釈尊が開三顕一の法を説こうとすると、
5000人の増上慢が法座を起って退いてしまったのですが、
釈尊はその増上慢の人達を制止することなく、そのままにしておいたそうです。
この故事から、権中納言さんは釈尊気取りで、
「‘退くもまたよし’ってことですかね。」
というのですが、
清少納言も負けじと、
「あなたこそ、5000人の増上慢と一緒でしょ!」
と言って出ていくわけです。
これは、権中納言さんにしても、清少納言にしても、それを聞いている周りの人にしても、
八巻からなる法華経の一字一句をそらんじていなければ到底できる芸当ではありませんよね。
現代の私達は、仕事が…とか、会議が…とか、とかく生活に追われてしまっていますが、
忙しいという字は、
“心”を“亡くす”と書くわけで、確かに仕事をするために生まれて来たわけでもないし、
せかせかと動き回るために存在するわけでもないというふうに考えると、
生き方も少しは変わってくるのかもしれないなぁと、感じたこの頃です。
“乱世”に逃げ込みたいところ…『極楽浄土』らしい…(;一_一) [文系っぽいお話]
前に日本史を学生さんと一緒に勉強したのですが、『文化』に入ってなかなか面白い発見がありました
古代から始まって、世の中の移り変わりのいわゆる“乱世”になると、古代・中世問わずに、『浄土信仰』が流行る傾向があるようです。
浄土信仰を平たく言ってしまうと、
「この世はいやなことばかり、だから一日も早く死んで西方極楽浄土に行きたい。」
という事だそうです。(私が言っているのではありません。悪しからず。)
その証拠に、浄土信仰の開祖は、『早く死にたい』と松の枝に縄をくくりつけて“首をくくった”と言い伝えられています。実際には松の枝が折れて地面にたたきつけられ、悶え苦しんで数日後に他界したそうです…
そんな“浄土信仰”がなぜ乱世にはやるのか
その答えは前述の、「…、早く極楽浄土に行きたい。」にあるようです。
確かに、乱世というのは怖いですからね。守ってくれるべき国家が崩壊し、盗賊などが我が物顔で村を出入りするのですから。
「こんな世の中いやダーッ」
と思うのは無理からぬことでしょう。このような事実からも、“浄土信仰”を求める心の元には【現実逃避】があると言われています。
【現実逃避】の最たるものが【自殺】です。
さっきの“浄土信仰の開祖”が自殺をしたがったのも当然の帰結といえるでしょう。
しかし、【自殺】は【殺人】ですから、決してやってはいけません
何だか今回は神妙な話になってしまいましたが、目の前の困難から逃げることなく頑張ってまいりましょう
自分の周りに必ず見方はいますからね
英語には『未来形』はないの?! (゜.゜) [文系っぽいお話]
むかーし、ってほどではないのですがNHKでやっていた英語講座で、
「英語には未来形というのはありません。」
って言っていたのを思い出しました。
でも、そう言われても、「will」とか「be going to~」があるじゃない
って思いますよね。
比較の対象として、『過去形』を見てみると良いそうです。
確かに過去形は、「~ed」とか「不規則変形」みたいに決まった【形】がありますよね。
その目で見ていくと、通常未来形と言っている「will」とか「be going to~」なんかはよ~く見ると他の表現を借りてきているようですな。
「will」は、名詞では“意志”ですが、この場合は【“意志”を表す助動詞】ですね。
「be going to~」にかんしては、【<to~>に<going>しているところだという進行形】なわけです。
『過去形』のように、動詞そのものが変形をして『未来形』を表すことはないようです。
普段何気なくやっている英語の勉強も、ちょっと視点を変えると面白い発見があるとは思いませんか
何か面白い発見がある方はぜひコメントで教えて下さいませ
コメント待ってマース
『征夷大将軍』…なんでこれが武家の棟梁なのかなぁ??? (゜.゜) [文系っぽいお話]
『征夷大将軍』
言わずと知れた幕府の最高権力者のことですね
元々は、朝廷が東北地方を征服するにあたって坂上田村麻呂をこの官職に任命したのが始まりですね。
という事は、元々の実態はかなり限定的なものだったということになりますな。
最初の武家による軍事政権『鎌倉幕府』は、源頼朝が征夷大将軍に任命されたからと学校なんかでは教わります。
しかしなんで東北地方を征服する為の臨時の官職が武家の棟梁をさすようになったのか
コリャー疑問がわいてきますよね
そこでちょいと調べてみると、源頼朝は、征夷大将軍に任じられる前に、『日本国総追捕使』『日本国総地頭』という官職を恒久的に務めることを朝廷から確認されています。
つまり、この段階で日本国の国家的な軍事・警察の総元締めとしての地位を確立するというわけです。
その後、御家人を率いて国家守護に当たる‘鎌倉殿’に対して、朝廷から付与されたのが『征夷大将軍』の称号だという事なのですね。
しかし、過去にもこんなふうに実態のない”名ばかり官職”を実権のあるものに与えて、以降、その官職が実質的な意味をもつようになった例はあるようですな。
例えば、平清盛が与えられた『太政大臣』も、当時は名ばかり官職だったのですが、清盛の実権により、官職そのものが息を吹き返したという事もあったようです。
こんなふうに日本では古来より、あるものをできるだけ活用するという、精神的なエコ思想があったように感じるのは私だけでしょうか
言わずと知れた幕府の最高権力者のことですね
元々は、朝廷が東北地方を征服するにあたって坂上田村麻呂をこの官職に任命したのが始まりですね。
という事は、元々の実態はかなり限定的なものだったということになりますな。
最初の武家による軍事政権『鎌倉幕府』は、源頼朝が征夷大将軍に任命されたからと学校なんかでは教わります。
しかしなんで東北地方を征服する為の臨時の官職が武家の棟梁をさすようになったのか
コリャー疑問がわいてきますよね
そこでちょいと調べてみると、源頼朝は、征夷大将軍に任じられる前に、『日本国総追捕使』『日本国総地頭』という官職を恒久的に務めることを朝廷から確認されています。
つまり、この段階で日本国の国家的な軍事・警察の総元締めとしての地位を確立するというわけです。
その後、御家人を率いて国家守護に当たる‘鎌倉殿’に対して、朝廷から付与されたのが『征夷大将軍』の称号だという事なのですね。
しかし、過去にもこんなふうに実態のない”名ばかり官職”を実権のあるものに与えて、以降、その官職が実質的な意味をもつようになった例はあるようですな。
例えば、平清盛が与えられた『太政大臣』も、当時は名ばかり官職だったのですが、清盛の実権により、官職そのものが息を吹き返したという事もあったようです。
こんなふうに日本では古来より、あるものをできるだけ活用するという、精神的なエコ思想があったように感じるのは私だけでしょうか